人生初のリアル的「抜歯」体験を経て思うこと

 

本日は地元の歯科医院にて、おいらにとっては初めての抜歯の体験があったので、いささか恥ずかしながら、其の彼是について報告していこうと思う。

予約していた某歯科医院の門をくぐり、緊張高まる処置ルームへと足を運んだ。いつもの何度となく見慣れていた光景ではあるが、足取りが重かったのはやはり、人生で初めての抜歯と云う体験が控えていたことによるのだからだ。

そういえばかつて、少年から青年期へかけての頃にはよく、歯を抜かれる夢を見ていて其れが恐怖ではあった。自らの身体の一部がもがれ取られていくといった、暗喩的な意味が込められたシーンだったのだと思う。完全なる肉体からもぎ取られていくというイメージは、衰えや老いや不遇といったイメージをほうしていたのだろう。

その後はしばらくは抜歯の夢は遠ざかっていたが、青年期を過ぎたある時期になると、そんな抜歯の夢にまるで取り付かれたかのように其の夢は入り浸っていたのである。身体の一部を削がれるといったイメージに加えて、まるで自らの持つべき能力を剥ぎ取られていくといったイメージとして受け取られていた。かなり苦痛な体験(夢体験)として体験していたことを思い出すのだ。

人生初のリアル的抜歯の体験は、想像以上にあっけなく、時間的には15分ほどで終わっていた。歯茎への麻酔注射から抜歯までは、オートメーション的に仕組まれたルートに載ってあっけなかったというべきであろう。そして、歯科医の今後注意すべき生活習慣への説明(過度な運動を控える。入浴を控える。酒を控える)を聞いてのち、薬剤薬局の門をくぐっていた。ドクターから云われていた通りに、抜歯から3時間ほど経つとズキズキした痛みに襲われていたのであり、処方された痛み止めを飲んで過ごしていた。ズキズキ感は想像以上であったので、処方された痛み止めに感謝の気持ちを強くしていた。

(抜歯に関する夢については、今後別稿にて続く予定)

東松山のご当地名物「やきとり」こと豚のカシラ焼きに舌鼓

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先日は埼玉県の東松山を訪れたのだ。主目的はご当地名物の「やきとり」を食することである。この小都市には約百軒もの「やきとり屋」が密集している。それを称して「やきとりのワンダーランド」などと呼ぶグルメ本もあるくらいだ。同地域にて提供される「やきとり」の材料は鶏ではなくて豚である。本来であれば「焼きトン」と称すべきなのだが、この土地柄では古くからの慣習で「やきとり」と云えば豚の串焼きを指すことになっている。またほとんどの店では、軽く塩焼きにしたものに特性の「辛味ダレ」を付けて食べるのが慣わしとなっている。また特に指定しない限り「カシラ肉」とねぎを刺して焼いたものがやきとりの代名詞である。店に入って席に着くと何も云わずに「カシラ」の焼きトン、おっと間違いだ、やきとりが運ばれてくる老舗店まであるくらいだ。好き嫌いはあるがこの土地では土地の流儀にしたがい個性的なやきとりを愉しむのである。ちなみに「カシラ」とは豚のほほの肉を指すが、程よく引き締まって味わいも濃厚だ。吉祥寺の老舗店「いせや」で出される「カシラ」は脂身がギトギトしていてあまり好みではないのだが、東松山の「カシラ」は下処理が上手にされていて食べやすい。同じ食材でも調理法でこれだけ違いがあることを知ったのである。

初めて訪れた「大島屋」は東松山駅から徒歩数分の立地にある小さな店舗であり、やきとり以外にも多数のメニューを提供している。やきとりのワンダーランドこと東松山の玄関口の、とても趣きある店舗としての名店である。ホッピーがメニューにあることを確認して先ずはホッピーでのどを潤して、やきとりこと豚のカシラ焼きを注文。そして添えられた辛味ダレをたっぷりと掛けて口に含めば、東松山ならではのやきとりの味わいにうっとり。焼きトンはカシラが一番だという説にも納得の美味さだった。

我が国出色の日本語変換ソフト「ATOK」に再会かつ再使用也

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おいらがパソコンというものに接して以来、二十数年を経過している。まずは、NEC98シリーズにて「一太郎」というワープロソフトに触れたのが最初だった。パソコンというものは先ずは日本語を取り扱わなければならず、当時は国産性のNECかEPSONというマシンを選ぶしか選択肢はなかったのである。おいらは職場でNEC製パソコンに触れて基本的扱いを学んだ後に、EPSON社製のパソコンを購入していた。ときに同時に「一太郎」という日本語ワープロソフトを購入し、日本語文書の作成的環境を築き上げていたのではある。一太郎は良くも悪くもない所謂ひとつのワープロソフトだが、日本語変換ソフトの「ATOK」が出色であり、未だにその評価は衰えることはない。

おいらはかつては「ATOK」のヘビーユーザーであったが、ここ数年来、「ATOK」という日本語変換ソフトを使用しないでいた。その理由のひとつには、マイクロソフト製の「WORD」というワープロソフトの席巻があったというへきだろう。ワードを扱うにはマイクロソフト社の日本語変換ソフトを使用するのが一番手っ取り早くて面倒がない。面倒が無いからずっと使い続けていたというのが事実である。マイクロソフト製の日本語変換ソフトも100%ではなくても使えるくらいの性能はあったと、当時は考えていた。

だが近頃はそんな評価も翻っていて、マイクロソフト製日本語変換ソフトはとても重くて使い物にならないくらいの代物である。近日はやっと高性能のウルトラブックを購入していてストレスは解消していたが、日本語変換のストレスは、マイクロソフト製ソフトの影響が強かったということを思う次第なのである。

綿矢りささんの新作集「憤死」を読んだ

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またまた綿矢りささんの新作集「憤死」が発刊されたことを書店で知り、早速同書を読んでみたのだ。

4つの短編からなる作品集である。帯には「新たな魅力あふれる 著者初の連作短編集」とある。「著者初の」というのはその通りだろうが「連作短編集」というフレーズには合点がいかない。4つの作品はけっして連作的な要素で結びついている訳ではない。こんな曖昧な関係性を「連作集」としてひとくくりにすることはあり得べきなのであり、こんな適当な売り文句を冠して売り出してしまった同書籍編集者の常識を疑わせる。貴重な才能を葬りかねないくらいに酷い扱いであり、怒りさえ感じさせてしまうくらいだ。であるから、と強調する訳ではないが、以下には「連作集」ではない同書の魅力について、いささか述べていきたい。

物語の主人公は幼女だったり、少年だったり、妙齢の少女から大人にかけての女性だったり、少年の思いを引き摺って生きる男だったり、等々と多岐にわたっている。取り立てて企図されたテーマはないのだが、あえて述べるならば、人生のあるいは人間存在の裏舞台を、りささんなりの切り口で物語化させた作品集ではないかということだ。裏舞台は表舞台を眺めては色々と批評もしつつ、ときには恐ろしい結末に導いたりもする。順風満帆の人生にはおそらく裏舞台の存在は邪魔な存在であるのだろう。それでも存在を消されることなくある裏舞台の存在を物語として浮かび上がらせるりささんの筆致は見事である。

肩の力を抜いて、綿矢りささん的物語発想の展開そのままに綴られたと思われる短編集の数々には、少女感覚を過去のものとしてなお、其れらの感覚にこだわり続ける登場人物たちに遭遇する。

たとえば表題にもなった「憤死」という短編作品は、主人公の少女と、自殺未遂をした主人公の友人との関係性が主軸となって物語が進んでいくのだが、「好き」や「嫌い」を凌駕してその先にある女同士の遣り取りの機微に触れつつ、やはりりささん的な世界へと入り浸ってしまうのだ。

数十年ぶりの故郷前橋の「七夕祭り」に遭遇したのだ

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おいらの故郷こと上州前橋では、7月の7日の前数日間は七夕祭りで賑わっている。本年もまたその季節になり、数十年ぶりに故郷の七夕祭りに遭遇することとなっていた。

願いを込めた短冊には、市内の老人施設の人たちの書き込みが目立っていた。おいらの家族が関係する施設の展示もあり、一つひとつの書き込みに目をとられていたりしていた。

屋台の数々は、旧市街地の銀座通り、中央通りといった元繁華街に集中して営業がされていた。子供の頃には楽しみだった屋台の料理も、今ではありきたりのものばかりで些か興醒めではあった。それでも金魚すくいや射的の屋台に遭遇したときは、少年心を思い起こしつつ、そんな若かった頃の息吹たちを取り戻していたのかも知れなかった。

■前橋七夕祭り
http://www.city.maebashi.gunma.jp/653/654/p002591.html

「アーツ前橋」プレオープン企画の「からだが語る」展が開催

群馬県前橋市の「アーツ前橋」では、今年10月のグランドオープンを控えてプレオープン企画が展開されている。その第一弾を飾るのが、7月4日からスタートした「からだが語る」展である。前橋市が所蔵する、前橋にゆかりある作家たちの作品群の中から特に展示テーマに添って選ばれた作品が展示されている。

人物画の中で特別にテーマを設定して作品展示するという試みのようである。企画展に関わる関係者の熱意といったものを受け取ることができる。人物画というジャンルの中でも「からだ」というテーマを設定したところに浮かび上がるものとは何か? それはさしずめ動きであったり、解剖学的視点であったりするが、作家の意図とは無縁の要素としてそれらがピックアップされてくる機会に触れるのもまた希少な体験ではある。

■アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16
http://www.artsmaebashi.jp

蒟蒻(こんにゃく)の本場上州ならではのメニュー「蒟蒻の葱味噌炒め」

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上州こと群馬県は全国一の蒟蒻の産地であり、低カロリー食材としての蒟蒻を使った料理メニューが豊富である。ポピュラーなのは蒟蒻の刺身や味噌おでんといったところだが、本場上州ならではのメニューとして紹介しておきたいのが「蒟蒻の葱味噌炒め」。食材として用いられているのは、刺身用の気取った蒟蒻ではなくて、その見た目も田舎風の、いわゆる灰汁色しており、これこそ蒟蒻色なのである。これを、上州特産の葱と味噌とで炒めて提供されるのが「蒟蒻の葱味噌炒め」なのである。

けっして見た目は良くない。だがひとくち口にすると瞬く間に、あの灰汁のきいた蒟蒻本来の味わいにうっとりとした気分になること請け合い。まさしく蒟蒻は上州前橋で味わうに限るのである。

帰省列車の中で「金目鯛の味くらべ」という駅弁を食らう

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近頃は上野駅経由で帰省することが多く、にありつく機会も増えているのであり、上野駅内の駅弁売り場は行きつけスポットになりつつあるのだ。数ある駅弁類の中で最近の好みだったのは「金目鯛の味くらべ」という小田原産のもの。何しろ金目鯛という希少で旨味満点の食材を使い、照り焼き、角煮、マリネ仕立ての素揚げ、そしておぼろといった4種類の料理を味わうことができるという、金目鯛好きにとってはこの上ないくらいの垂涎的な弁当なのである。

小田原市内の「東華軒」というところでこの駅弁が作られている。「海の幸を贅沢に」という当弁当のキャッチフレーズに恥じない美味しさ。金目鯛の本場の伊豆におとずれても滅多には味わえないくらいの逸品的駅弁ではあった。

小振りの「イイダコ」を酢味噌和えで味わう

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小型のタコとして食用にも重用されている「イイダコ」を酢味噌和えで味わった。疣(いぼ)状突起が多いので、タコらしさを味わうことうってつけなり。頭の中にはぎっしり詰まった卵が詰まっていてそれが「飯」のように見えることからこの名前が付いたという説がある。此の部分はおいらとしては避けてしまいがちだが、たまに味わうことが出来るときは有り難くいただくことにしている。

やはりボイルして酢味噌などで味わうのが一番イイダコの味覚を味わうには最適だと思うのだが、なかなかこのようなシンプルなメニューにはありつくことが出来ないでいた。今回のメニューは、しばしのラッキー的な出逢いだったのかもしれない。

そもそもイイダコとは、マダコ科のマダコ属に分類されるタコの一種であり、小型のものが特にそう呼ばれている。二枚貝の貝殻に生息していることなどから、二枚貝を用いて漁の仕掛けがなされている。古代より食用として漁獲されているが、あまり見かけることは多くは無い。小型で可愛くて、しかも味わいも美味なのであり、メニューに見かけたらば注文することをおすすめする。特にこの季節のイイダコの頭の部分には、卵が仕込まれており、この卵こそイイダコの食味を代表すべき味覚である。

植物性の脂身豊富な「アボカドの刺身」で一献なのだった

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アボカドの刺身と云うメニューを食した。アボカドを酒の肴のつまみとして、所謂つまみ食いをしたのだった。

何時ごろからだったのだろうか? 寿司屋のねたケースに乗っていたのを見つけて、試しにとその「アボカド寿司」を食べてみたのだが、その当時には全然ピンと来なくて、それ以来おいらは、アボガド寿司は邪道であるとの一念を通してきたのではある。然しながら先日、わさび醤油につけて食した「アボカド」は、其れまでの思い込みを払拭させるべきほどのインパクトでおいらの味覚を刺激していたのであった。これは酒の肴に打ってつけであると確信すべきものではあった。

そもそもアボカドはメキシコと中央アメリカが原産とされている。然しながら近頃では国産のアボカドも生産されているのであり、秋期に収穫された国産のアボカドが充分な熟成を経て出荷されている。おいらの狙いは実は、そうした国産のアボカドなのである。果実なのに脂肪分が多く、別名「森のバター」と呼ばれることも納得。脂肪成分のほとんどがDHAなどと同種の不飽和脂肪酸であり、普通に食するにはあまり気にする必要はないだろう。

山ウドの醤油煮は逸品の味わいだった

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山ウドとは山菜の一種であり、夏に小さな白い花をたくさん付け、秋に直径3mmほどの黒色の液果となる。若葉、つぼみ、芽および茎の部分を食用とする。--とされている。

おいらの住まう東京多摩地区をはじめとする地域には多くせい息するという。山菜マニアたちによれば美味しい山菜の代表格とされているようだが、おいらはそこまでの特別な思い入れは有していない。かえって珍しい初夏の山菜の一種としてとても希少な食材として愛でていると云ったらよいだろうか。

山菜特有のあくもそれほど気にならない。旬の時季に収穫された山ウドは、醤油や味噌に漬けて、保存食として利用されることがほとんどのようなのである。

おいらが此のたび口にしていた山ウドも、醤油漬けにして提供されたものである。生では食せないのだろうか? という疑問も生じたのだが、此処は素直に提供された料理を味わうことにしていた。そしてその提供された料理は、感動をもたらすくらいに逸品なメニューであったのであった。