我国の酒場におけるノンアルコール族の生態

先日、上野界隈の居酒屋にて一献やっているところへ、奇妙な客が訪れた。店員の「お飲み物は?」との問いかけに、「ノンアルコールで」と返していた言葉が、その場においては奇妙珍妙の類に感じさせていたのである。

「ノンアルコールビールは無いんですか?」

とそう穏やかに聞く客に対して、若き女性店員の対応は極めてぞんざいであった。酒を飲まない客など客の資格に値しないと、多分そのくらいの目線で客を見下している光景であった。その店員が何と答えたのかは残念ながら把握できなかったのだが、その後のやり取りで、客が出した注文の豊富さに、つまりは呑兵衛を超えるくらいの通的のオーダーを受けて、店員はそそくさと後ずさりをするしかなかったようである。

おいらの知人でも「酒は飲めないが、酒場の雰囲気が好きなので、一杯付き合う」とのたまわれて酒を酌み交わした人たちは少なくは無いのであり、ノンアルコール族の人権と云うべき問題がそこに横たわっているとも云えるのかもしれない。

ともあれおいらはそんな光景を目にしつつ、やはりそのおやじに言葉を掛ける気にはならなかった。素面の人間と酒場で一緒にした時のこと、つまりはノンアルコール人間と一献やっていたときの、その気まずさが、改めて記憶に浮かんできていたのであり、そんな異質の人間に対する、ある種一定の防御本能が働いたのかもしれないのであった。

美味しい「オムレツ」に出合うと嬉しくなる

美味しいオムレツを食べることができた。美味しいものは箸よりもやはり酒がすすむのは何時ものこと。ふわふわとして柔らかくそしてクリーミィである。この触感は他には見られない代物ではある。

しかもシラス入りでありカルシウムが豊富とあっては喜ばしきことこの上ない。食糧難の戦中、戦後にこの2種類の食材が果たした役割は筆舌に尽くしがたきものではある。

近頃の大衆居酒屋で美味いオムレツを出す店は少なくなっている。手に職を付けた味職人が減ったということ、そして悪しきコスト追求がその要因ではあろう。

今や多くの大衆居酒屋の主的アイテムは揚げ物であり、時間とコストを天秤にかけたコストパフォーマンスはこれに勝るものはないと云えよう。そんな状況の中で美味いオムレツを出している居酒屋のメニューには、敬服に値するのである。

浅草ホッピー通り「居酒屋どん」の「牛スジ煮込み」

浅草の「ホッピー通り」はホッピーを提供する居酒屋が立ち並ぶ、おいらの行き付けの場所であり、そこでよく注文するのが「煮込み」である。

なかでも「牛スジ煮込み」は多くの店舗での看板メニューとなっている。

人気繁盛店「居酒屋どん」の「牛スジ煮込み」もまた、そんな看板メニューの一つである。

大きくカットした牛スジがドーンと迫力のボリュームで提供される。大根、人参、蒟蒻等々の他の素材も大きくて、食べ応えも充分なり。

だが不満もある。大降りの牛スジはじっくり時間を掛けて柔らかいのだが、コラーゲンの栄養素が足りないのだ。もっとねちっとした触感が牛スジの持ち味なのだが、その点で持ち味のアピールポイントが足りない。

■居酒屋どん
東京都台東区浅草2-3-17
03-3843-0028

高円寺「大将3号店」の「上海火鍋」は優しい味がした

高円寺にある居酒屋「大将3号店」にて「上海火鍋」を食した。

ラム肉、ネギ、ニラ、モヤシ、鶏肉団子、春雨の6点がセットになって一通りの具材が揃っており、火鍋スープはと云えば鶏がらベースに唐辛子やラー油やらにより辛目に調合されており、丸ごとの大蒜も入って味覚の奥行きも在る。決して居酒屋のやっつけ的メニューでないことは請け負いである。

ある時期のおいらは火鍋に嵌っていたことがあり、都内の火鍋専門店やらに足繁く通っていた。辛味が際立っていた専門店の火鍋は、汗をふきふき、口をパクパク、そしてハーハーと大きく呼吸をしながらコップの水を口に含みつつ、完食を目指していたものではあった。それはそれで愉しい経験ではあったのだが、火鍋=辛味的刺激体験という構図には、ある時期になって飽きを来たしていており、それ以来はあまり外食で食することは少なくなっていた。

今回の「上海火鍋」はベーシックな火鍋のレシピを踏襲しつつ、スープは辛過ぎず、大蒜味が利いていたり、春雨が辛さを中和していたりと、とても優しい味わいに感じられたのである。お気に入りのメニューに加えてたいと思ったのであった。

夏間近を感じさせる「ゴーヤ(ニガウリ)」の味わい

5月8日は「ゴーヤの日」である。

暑さを感じる季節になった。昼間の暑さは汗が滲み出るほどであり、夏にはまだ早いが、春本番と云ったところだろうか。未だ夏には早いのだが、地元のスーパーには早くも濃緑色した「ゴーヤ(にがうり)」が棚に陳列しており、夏の到来を予感させるには充分な光景であった。

ゴーヤの表面にある濃緑色のイボイボは夏の汗を象徴するかのように強力なエネルギーを連想させるに充分であり、その独特な苦さとも相俟って、夏には欠かせない食材として定着している。主産地が我が国最南の沖縄であることも、そんな存在感を強靭に後押ししている。これから幾度となく食卓に上る食材であることは確かである。

早速購入し「ゴーヤチャンプル」を調理。沖縄料理のチャンプルの味付けとは多少違えて、鶏ガラスープとオイスターソースで中華風の味付けを付与してみた。ゴーヤと云う素材自体の存在感が強いため沖縄風との違いは些細なものだが、それでもおいら流のレシピとしてはこれがポピュラーな味付けとなっている。ちなみに卵とじにしないのもゴーヤの苦さが削がれてしまうからであり、おいら流である。

今時のベトナム的ブームだと云う「牛筋ベトナムカレー」

現代のベトナムでは「牛筋カレー」が主流なんだそうである。特に、飲み屋で出される牛筋カレーは、鍋で煮込んで出されて、そんなカレーにバゲットを浸しながら、ワインを飲むのがベトナム流、通の作法と云うことなのらしい。フランス流にアレンジされたベトナム流のたしなみかたなのだろう。

おいらもベトナム風を真似て、「牛筋カレー」とバゲットで一献やってみた。

牛筋は隠れ素材的に所謂出汁の素のような扱いではあった。韓国料理の牛筋の存在感とは雲泥の差があったと云えよう。ともあれ、エスニックの香り漂うベトナムカレーは、ココナッツの風味が生きていてまろやかであり、スパイスもほどほど程度に効いていて、食べやすく食欲をそそっていたのであった。暑い春の日にはスパイスの効いたカレーはなまった身体によく効くのだった。

コリコリっとして海の野趣満点「サザエの刺身」

普段は壺焼きで食するサザエを、刺身で食べてみたのだった。

身の部分はコリコリっと硬く、海の野趣が満点に味わえる。しかしながら尻尾のように丸く縮こまっているところには、人や哺乳類の大腸のようなものではあり、しかるにうんち的部分には違いないのだ。

其処の部分を口に含むには多少の躊躇いが未だに生じるのである。何度かは食している「サザエの刺身」であるが、未だにこの点のおいらの中での解決は未知数なのである。

古きを温めてしかも新しい、今時の「ナポリタン」の味わい

その昔は「スパゲッティ」と云えば「ナポリタン」か「ミートソース」と決まっていたのだ、確か…。今は昔の「ナポリ」のスパゲッティが、復活のきざしなんだそうではある。

そんな最中、下町の居酒屋にて「ナポリタン」という〆のメニューが出されていたので注文してみた。

幼い頃に田舎の洋食屋で出されたように、ステンレス製のキッチュなプレートにフォーク、そして、ナポリ、ポテトサラダ、キャベツ、しし唐があしらわされていた。昭和の洋食屋の佇まいではあった。

フォークを口にあてがってみれば、やはりケチャップの濃い味わいが攻めてきた。だがこれこそはおいらが幼少の頃に愛でていた味わいの基本だとも云えるものだった。少し濃い目のケチャップ味と、柔らかく伸びてしまったくらいのスパゲッティーの感触とが、「ナポリタン」の基本的味わいであるのだが、その基本を今尚踏襲して提供されるメニューが存在することは慶びてあったと云う外は無い。

本屋大賞ノミネート作品、沼田まほかるさんの話題の一冊「ユリゴコロ」

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2012年の「本屋大賞」にノミネートされ注目を浴びている、沼田まほかるさんの「ユリゴコロ」を読んだ。

「ユリゴコロ」という語彙は一般に存在しない作家の造語であり、「拠りどころ」に起因している。「ユリゴコロ」というタイトルによる4冊のノートに、読む者を驚愕させる内容の手記を残していた。その手記は「私のように平気で人を殺す人間は、脳の仕組みがどこか普通とちがうのでしょうか。」という一文から書き進められている。この手記の内容自体が小説の重要部分を占めている。それを主人公の亮介が偶然にも発見することから物語が展開していくのである。

精神的な病を患っていた手記の筆者が、精神科の医師に「ユリゴコロ」という言葉を何度も浴びせられていたというくだりがある。実は「ユリゴコロ」ではなくて「拠りどころ」であったということで手記の筆者も合点するのだが、物語のその後においても「ユリゴコロ」という語彙は云わばキーワード的なものとして存在していく。不思議な語感を残し、読者を特異な世界観へと誘っていくようでもある。

殺人願望という、幼児期からの衝動にとりつかれた内容の手記、しかも家族の誰のものかは判らないまま、何やら怖ろしい記述内容が事実かフィクションかも判然としないまま、主人公の日常のドラマと共に、同時進行的に手記の内容が明らかにされていく。ミステリー小説を読み慣れている訳ではないおいらにとっては、そんなプロットの展開には興味をそそられることは無かった。アマゾン等の読者評では「途中で結末がわかってしまった」等々の評が散見されたが、この作品もそうしたジャンル作品の一つなのかと理解したという程度の認識である。

手記内容が事実か? 或いはフィクションか? という点については、物語の中盤くらいで明らかにはなるのだが、それと反比例するように、小説世界への信憑性は薄らいでいったという思いが強く残った。無理矢理至極のプロットとでも云うのか、何だか無茶振りとでも云いたくなる後半の展開へとなだれ込んでいくのである。

複雑に絡み合う家族関係や特異な血縁の匂いが横溢し、それはそれで刺激的なのだが、これもまた、特異なフィクションでしかないという思いを強くしていたのであった。

イカ(烏賊)が美味い愛好家の聖地的スポット、荻窪の「やきや」を探索

荻窪の「やきや」を探索した。実に異色のいざかやである。焼き物が中心の立ち飲み居酒屋店だが、なかでもいかのつまみが豊富でしかも格安であり、地元の呑兵衛を中心に人が絶えることが無い。

元々昨年まで、「焼きや(「やきや」の前身)」は荻窪駅北口の一角にあった。それが昨年の何時か、いつの間にやら無くなっていたのでおいらはとても残念な気持ちでいたのだった。

ネットで調べたところ、荻窪駅の南口に新しく店舗をオープンしたという情報を入手。やっと新生「やきや」への訪問探索が叶ったのであった。

当店の売りはあくまでも「イカ(烏賊)」なのである。何故に「烏賊屋」「イカ屋」「いかや」と名付けないかと、かねてからおいらは疑問ではあったのであった。

それでも「やきや」が再開していたということは喜びであった。

先ずは「イカ軟骨焼き」を注文した。今ではコンビニのおつまみメニューで一般的なものではあるが、やはり生ものの「イカ軟骨」はと云えば、その触感やら生々しさやらにおいては絶品の一品ではあった。

そして二品目に頼んだのは「イカ耳の刺身」である。高級店では捨ててしまう部所ではある。身よりも硬く歯応えがある。それがまるでほのかにピンク色をしていて工芸品のような包丁捌きの一品として出されてきたので、それで第一発目のパンチを食らったようである。触感はそれ程は硬くなく噛み応えもあり、呑兵衛のつまみとしては申し分が無い。

地元で食べた「筍焼き」は大地のアクの味がした

筍は春に大地に芽を出してその日に採られ出荷される。少し育ってしまったものは筍にはならないのであり、云わば幼生の食材だと云えるのである。そんな旬の筍を焼きのメニューで食したのだった。

春ももう後半に近づいて、筍の出荷もピークを超えたようであり、希少性も失せ、注目度も低いのだが、こんな時期こそ美味なる筍が味わえると常々期待しているところなのである。

焼く前の大きな筍を目にしていたが、実際に焼き上がって提供されたものはとても小さかった。そして幾重にも重ねられた皮は硬くて厚くてとても人間の歯では噛み切れる類のものではなかったのである。

食した部分は少なくて、でも焼き色も少々付いていて、目にも口にも愉しませてくれていた。味付け、調味のほうはと云えば特別な工夫など無く、それが却って筍本来のアクのえぐみを強く感じさせていた。これは筍の本来の味わいの一部であり、摘むことなどあってはならないと感じ取っていた。それかあらぬかこの晩春の筍には、おいらも特別な思い入れを強くしている今日なのではあった。