謝罪がパフォーマンスとなる此の国の行方

昨日から本日にかけてのニュースには、石原伸晃環境大臣の謝罪行脚とセクハラやじ゛都会議員の謝罪会見の映像で持ちきりの様相だ。謝罪がニュースになるのだから日本の国は平和なのかもしれないが、それでも謝罪者当人政治家たちのインチキさには怒りを覚える。石原伸晃は自らの子分とも称するべき政治家たちへの形式的な行脚をもって謝罪を終わらせようとしている。侮辱をし傷付けた東北の人たちへの直接の謝罪はパスしての謝罪行脚にはパフォーマンス的な意味合いしか持ち合わせていないのは明らかである。こんなパフォーマンスを見させられるくらいならば謝罪行脚など無くて宜しい。時間の無駄も甚だしいのである。そしてもう一人の謝罪パフォーマーの鈴木章浩には、呆れる以外の印象を有しなかった。この地方政治家に至っては、謝罪の意味さえもが取り違えられており、パフォーマンスの内容は非条理な自己弁護と下らない強弁に終始していた。謝罪がパフォーマンスに終始している此の国の行方に赤信号が灯っていることを痛感したのだ。