ずっと気になる乙一氏の「平面いぬ。」を読んだ

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現在、現役作家としてとても気になる作家の筆頭が乙一氏であるといえるのかもしれない。あまり近頃は読んでいなかったのであるが、先日ふと目にした「平面いぬ。」を購入し、本日読了したのである。

ふとした思いから子犬の刺青を入れた少女と、タトー子犬とのやり取りが、コミカルに展開される。絆を得た彼女たちは、周囲の人間を巻き込んで更なる冒険をはじめるのである。

過去のデビュー作品としての「ZOO」や「GOTH」等から受けたインパクトは薄まって、かえって軽い気持ちで彼の作品に没頭している。そんな逆転的現象を受けて、さらに乙一氏への思いは強まっていると云ってよいのだろう。

芥川賞受賞作「冥土めぐり」(鹿島田真希著)

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鹿島田真希氏の芥川賞受賞作「冥土めぐり」を読んだ。400字原稿用紙にして110枚程度の作品で、一気に読み終えていた。前回の受賞作2作品に比べてみれば、わかりやすく正攻法な作品である。そもそも作家の邪気溢れるはったりやら、自己満足にしかないストーリーに付き合わされる読者の身としては、これほどの徒労感はないのであり、そんな文学愛好家の徒労感に些かなりとも芥川賞が関与して欲しくは無いのである。

作者の鹿島田真希氏を連想させる主人公の女性には、「病的」というのが適切であろう物欲の塊のような母親と弟が存在する。その母親の祖父というのが過去に一財産を築いた資産家であり、母親は過去のバブリーな生活の延長として、極めて病的な日常に埋没しているということである。

こんな家庭一族の悲喜劇模様を、バブル崩壊後の日本の縮図だと称する選評者もいるようだ。

――高樹のぶ子氏による選評

経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄の夢を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティをもち得ていない日本の縮図としても読める。女性主人公の母親と弟は、金銭の奴隷として描かれ、主人公は家族の荒廃した桎梏から逃げ出すように、頭に病を持つ夫を連れて一泊の旅行に出かける。

――

頭に病を持つ夫の描き方には、ある種の違和感を持っていた。無垢なるものとしての脳の疾患患者に対して殊更に天使の役割を担わせるには無理があると感じていた。

近頃IT界を席巻しつつある「タブレット」についての考察

先日は、さる中国料理のグループ店舗からの依頼により、中華料理メニューのタブレット化に取り組んでいたのだった。通常は紙ベースがベースとなるメニュー表、メニュー・アイテムなのではあるが、其れの代替としての、タブレット版のメニューにて案内しようという訳である。此のアイディアをおいらに示していたのは、某中国料理店グループ会長であり、会長はタイ国高級ホテル等のレストランにてこんなタブレットメニューに接し、是非此れを取り入れようという考えに至ったということである。

そんな事情もあり、近頃は「タブレット」を持ち歩く日々が続いている。ちなみに持ち歩いているタブレットは、ソニー製の「SGPT111JP/S」という機種である。結構頻繁に見かける機種であり、「iPad」に次ぐくらいの人気機種のようであると思われる。

ところでおいらはかつて、等ブログにて「iPad」について「暇つぶしの贅なる機器」等と書いたことがあった。

http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1458
http://www.midori-kikaku.com/blog/?p=1560

基本的な思いは変わることは無いが、日常的メディアの一つとして認識するにつれて、幾つかの特徴としての、メリット且つデメリットが目につくようになってきた。以下に幾つかを記してみる。

[メリット]
●「パソコン」に比較して電池の持ちが長いので、持ち運んで外出先にてネットにアクセスするには便利である。
●ポータブルを売りとするパソコンよりも軽量であり、鞄の中に忍ばせて、その重みを感じさせられることもない。

[デメリット]
●受動的に受け取るには良いが、能動的にネットへアクセスするには物足りない。
●ソフト、アプリ制作者として、「フリック」等、タブレット固有の機能を取り入れることが難しい。

ネバネバ食材の新顔「モロヘイヤ」で夏バテ予防

夏バテ予防に効果的な食材と云えば、オクラや納豆等のネバネバ食材が挙げられる。ここへきてネバネバ食材としての存在感を増しているのが「モロヘイヤ」であり、いつの間にやら日本の食環境の一環を占めるに至っている。

其の鮮やかな緑色が、豊富なベータカロチン含有を示しており、その他、活性酵素の働きを抑える抗酸化成分のクロロゲン酸やケルセチンなどのポリフェノールが豊富に含まれている。

原産地はインドやエジプトと云った諸説があり、兎も角も熱帯地方から伝来した品種である。それが亜熱帯化した我が国において定着しているのは、所謂一つの必然と云えるのかもしれない。

ミキサーで撹拌してスープにしたり、味噌汁にしたりと、その調理法もさまざまであるが、やはり一番シンプルでネバネバ感を味わえるのがお浸しなのであり、この料理に接することが多いのは所謂一つの道理なのだろう。

上杉隆氏による「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(2)

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同書においてかなりのスペースを割いているくだりが、鉢呂吉雄元経済産業大臣が、福島の原発事故現場を視察して後に、マスゴミによっての不条理な中傷を受けて辞任に追い込まれたという件についてである。

彼は述べている。

―――以下引用
私はこれまで、既存メアンフェアであると指摘し続けてきたが、この一件はアンフェアどころか、犯罪行為ですらあると言っても差し支えないと思う。完全なデマを流し、選挙で選ばれた政治家の地位と社会的身分を剥奪したのだから。
―――引用終了

上杉隆氏による「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(1)

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昨年末に、自らの意思にてジャーナリストの休業を宣言した上杉隆氏による、意欲的な1冊である。世の「ジャーナリズム」と云われる世界のひどさを身をもって体現し、其れへのアンチとしての抗議の休業宣言ではあるが、其の書を読む限りに論調にしみったれたところは微塵も無く、却ってからっとして爽やかさが満ち満ちている。ある意味で潔く、前向きである。これから先も何かやってくれそうな期待感がもたらされており、ジャーナリストの卒業宣言として受け取ることも可能である。

「3.11」を経てジャーナリズムへの嫌厭の念は頂点に達したようであり、前書きでこう記している。

―――以下引用
「3.11」後の混乱状況に際して、マスメディアは情報を隠蔽し、国民を欺き、国家の信頼を著しく毀損した。しかも当事者たちは、みずからの行為の意味も、それが後世に与えた影響の甚大さも、まったく自覚していない。
―――引用終了

西荻窪「焼とりよね田」の巨大な「つくね目玉焼き乗せ」

久しぶりに西荻窪の「焼とりよね田」に立ち寄った。同店の名物「つくね目玉焼き乗せ」は、その巨大さもさることながら、時々食べたくなる逸品である。

鶏肉の身と軟骨とを砕いて巨大な肉団子をつくって其れを炭火で焼いていく。団子は一つであり、食べ応えは極まりなく、そのジューシーな肉汁には頬が落ちちてしまうくらいである。

■焼とりよね田
東京都杉並区西荻南3-11-10

牛モツ、牛スジ、ハチノスの3点取り盛り揃えの「牛モツ煮込み」

通常「モツ煮込み」と云ったら、牛の小腸の部類のモツを煮込んで出されている。蒟蒻、牛蒡、大根、人参、等々の野菜は貴重な脇役としてその役割を果たしている。だがモツの煮込み系料理と云えば、「牛筋煮込み」「ハチノス煮込み」「豚モツ煮込み」等々の種類があるのであり、一概に「煮込みは牛の小腸を煮込んだ料理」と断定するのは間違いがある。

牛筋煮込みも、ハチノス煮込みも、或いは豚モツの煮込みも、それぞれに味わい深さが存するのであり、どれが一番秀逸かと云うことは決めかねるものではあるのだ。おいらの個人的な酒肴で、おっとっとと趣向で述べれば「牛筋煮込み」に一票を投じたいくらいに好みなのだが、然れども「牛モツ煮込み」「豚モツ煮込み」「ハチノス煮込み」が無くて済ませられるかと問われれば、否と答えるしかないのではある。

そんなこんなことを考えていたところへ、目に飛び込んできたメニューが、牛モツ、牛スジ、ハチノスの3点盛り揃えの3点盛りの「牛モツ煮込み」であった。

メニュー表を読めば、たしか牛の3種類の部署のモツが丁寧に煮込まれているとのことである。反射的に注文していたものではあった。3種類の盛り揃えとは最初は邪道かなという印象を強くしていたのだが、口にひと口含ませてみれば、これが想像以上に満足のいく味わいだったのではあった。刷り込まれた思いこそが邪道なのだと合点していた次第哉候。

今回もまた明らかとなった東京電力の隠蔽体質には呆れるしかない

東電擁護を発する馬鹿げた一部の馬鹿市民の声を背景にしてなのか、東京電力はここにきて、福島第1原発事故当時の映像を公開した。

然しながら肝心の音声が抜けていて、真実の究明には程遠い内容のお粗末極まりないものであることが明らかとなっている。

この東電からの映像の公開を受けて、菅直人前総理は、「音声どこかにあるはず」というコメントを発表している。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20120806-00000984-fnn-pol

まさに「マスゴミ」のレッテルが相応しいのがフジ産経メディアである。こんなフジ産経メディアからの不条理極まりない相当なパッシングにあった菅直人さんによる、素直なメッセージなのであり、この音声を公開せずに、菅直人悪者説を報じ続けるマスゴミの邪悪な意図とも繋がっていると見るしかないのである。

現実として見る限り此処までも報道機関は汚猥糞尿の類いにまみれてしまっており、糞尿の垂れ流しを続けているというのが実態なのである。

不条理を垂れ流すのは「マスゴミ」ばかりではない。一部のお馬鹿極まる日本国民市民によっても増長されるのであるからして彼らの犯罪性に対しても論じていくべきである時代なのであろう。

赤羽「まるます家」の鯉のあらいと鯉こく

母が入院している見舞いで上州に帰省していた帰りに、赤羽で途中下車して「まるます家」に立ち寄った。鰻と鯉が名物の大衆居酒屋であり、入場するのに待たされるのがしばしばで、本日も5分程度は待った後の一杯ではあった。鰻は今年も何度か食べていたので、まずは「鯉のあらい」を注文。やはりそのピンクの張りのある艶やかな見目が食欲をそそったのだった。2品目は「鯉こく」こと鯉の味噌汁を注文。これもまた田舎味噌の風味が効いていて美味であった。お腹も一杯でそしてお酒も多少は注ぎ足していたのではあり、帰りの中央線ではうとうとと最寄駅を乗り越して高尾駅まで行っていてしまったのだった。う~む、若いときとは違うのであり気をつけねばならない。美味い酒と肴とは身を滅ぼしかねないのだということを思った次第なのではある。

Android版、ドコモ的スマホの使い心地(2)歩数計で健康管理

Android版、ドコモ的スマホの使い心地レポートの第2弾である。

初期設定にてインストールされていた使う気もないアプリの数々を、数日かけて削除したのではあるが、なお削除できないアプリがかなりある。そのうちの一つが「歩数計」である。メインアプリの一つと見えてなかなか削除が出来ないのであるが、そんなことから使い始めていると、次第にこのアプリの意味合いが判然としてきており、日々の健康管理に役立てている。

ちなみに本日のステップ数はここまで8533歩であるという。東京都下多摩地区の郊外から都心に出て行くだけでステップ数は多くを刻んでいると見え、おいらの予想をはるかに超えて、おいらは都内をステップしているらしいことが判明したのだ。

新しいスマホを購入して以来、何日かは1万歩を超えている。想像以上の運動量であると感じている。

夏バテ解消にも効く「谷中生姜」の味わい

「谷中生姜」を食した。初夏にはこの「谷中生姜」が居酒屋の人気メニューとして注目を浴びている。

台東区の谷中界隈では、幼い生姜の畑が一面に広がっていたという言い伝えがある。芽の根本が薄赤く、見た目も清々しさをアピールしている。

あらためて感じ取ったのは、この生姜の生食は夏バテ解消にも効くのだということ。
がぶっと噛み込んで、ピリリとした刺激を味わえば、夏の季節の清涼感を充分に堪能することが出来るのである。

生姜と云えば通常は、カツオなど刺身の薬味として、或いは魚やモツの煮込み料理のアク消しとして利用される食材だが、幼い生姜の瑞々しさを生噛りすると云う、このインパクトは筆舌に尽くしがたきものである。

薬味仲間の「大蒜」「山葵」等に比較して親しみやすいのは、ひとつに生食できることが挙げられよう。

Android版、ドコモ的スマホの使い心地(1)

ドコモのスマートフォンに乗り換えてから、一ヶ月弱が過ぎた。使い始めた当初は、想定外のバッテリーの消耗をはじめとして、お節介極まりないひつじのメール、頼んでもいないのに働き続けるアプリの数々にはとことん辟易していた。ひつじからのメッセージやアプリの働き具合は玉石混交にあると思うが、とにかくお節介なアプローチが去来し鬱陶しくてならなかったのである。

mimiさんによる適切な指南もあり、おいらは新しく購入したAndroid版、ドコモ的スマホの設定をとことんいじくり出していた。その概要は下記のとおり。

その1 使わないアプリはすべて削除(アンインストール)しようとしていた。だが削除できない基本的アプリは未だ大量に残ってあるのが現実だ。

その2 GPSやBrootoothなどのオプション的な基本的設定はすべて解除した。

上記の設定変更により、当初はバッテリーが1日ももたなかった状況は、1日+αくらいは長めに延長されている。余計なメールやバイブレーションによる告知も影を潜めているようだ。

今年も「ヤモリ」が我が家に住み着いた

今年も夏になるころから「ヤモリ」を見かけるようになった。主には窓ガラスの外からそのシルエットをのぞかせている。その独特な吸盤やらコケティッシュな仕草やらにて、とても愛嬌を振り撒いている。おいらも愛玩動物にしたいくらいに好きな生物のひとつなのだ。

4本の足の指には吸盤が備わっているので、壁や木の高いところまでするすると素早い行動が特徴的である。ハエや蜘蛛などの小動物を餌にして活発に動き回るのがこの季節のようだ。

もともと人間の生息範囲とヤモリのそれとは、特別な区分があった訳ではなく、人間や小動物のすむ所が生息範囲なのだ。

古より日本には、「ヤモリが家にいる間は、その家には悪いことがおきない」という言い伝えがある。この言葉を信じてヤモリとは良き隣人として生活していきたいと思うのである。

ネット回線至上主義の落とし穴

先日から我が家のインターネット環境は、その中心回線であるNTTのフレッツ光ブロードバンドからのアクセスが不能となっていたのであり、不便を強いられていた。

トラブル当初は様々な原因を探ったのではあり、その時に思い付いていたのは下記のごとくなり。

〔1〕猛暑酷暑によりPCマシンのネット関連箇所がいかれたのではないか?
〔2〕WiFiの設定が壊れて、ソフト的な不都合が生じているのではないか?
〔3〕インターネットの大本を司る「ルーター」に不具合が生じているのではないか?

暦の休日を挟んで〔1〕〔2〕〔3〕の可能性をあれこれ詮索していたのであり、昨日漸く、NTT故障関連の部署に電話連絡が可能となった折には、おそらくは〔3〕のトラブルの可能性が高いというオペレーターの認識ではあった。

「普通は当日の修理にはうかがえないんです」というオペレーターを説き伏せつつ昨日は、急遽、NTTフレッツ光の点検修理作業員の人に来てもらうこととなったのである。

ルーターとデスクトップパソコンが設置されている部屋へ上がり、ルーターを分解してネット回線をチェックするなり、2名の作業員は何やら専門用語を連発。想定を超えたトラブルのようである。

「回線はどのくらいのレベルなんですか?」

というおいらの質問に対しては、

「まったく繋がっていない状況です。ここから(我が家のこの場所から)150メートルくらいのところで、回線が切れている可能性があります」

と答え、そそくさと外へと出て行った。その間の時間は5分も経たなかった。上記した3つの予測はすべて外れていたということであり、その想定外さは常識を逸脱するくらいのものであった。

結局、「150メートル」くらい離れた場所での光回線の切断が見つかったという。その修理作業にはゆうに1時間以上の時間を必要としていた。

おいらが居住する地域は地方都市の郊外とは云え、光ネットを利用する家庭は少なくないはずだ。そこで数日間のネット回線の遮断のトラブルは、少なくともおいらの想定を超えていた。

IP電話というネット回線を利用した電話を利用しているおいらとしては、こちらのトラブルが甚大だったことを思わずにはいないのだ。古き時代の電話回線には、このようなトラブルはほとんど無かったのであろう。インターネット回線に日常生活のすべてのインフラを集約しようとする流れに、一抹の不安を感じずにはいなかったのである。

吉本隆明さんに教わった「無言」という存在の重要性

吉本隆明さんに教わってきたことは多々あれども、その最も大きなことは、「無言」という現象への理解であったように思う。
「無言」とは「無意思」や「無思想」ではないことは明らかである。言葉にならない意思を込めて「無言」が存在するのである。ためにする議論等が蔓延っている現在社会において、敢て「無言」を貫く意味やその重要性を教えてくれているのである。

吉本隆明さんに教わってきたことは多々あれども、その最も大きなことは、「無言」という現象への理解であったように思う。

「無言」とは「無意思」や「無思想」ではないことは明らかである。言葉にならない意思を込めて「無言」が存在するのである。ためにする議論等が蔓延っている現在社会において、敢て「無言」を貫く意味やその重要性を教えてくれているのである。

夏野菜大盛りでオムレツをつくった

夏が本番ともなれば、夏野菜を主役にして料理に励まないといけない。そういうことは定理に近いことなのであり、今年もまた来たかなの風情なのである。

先ずは夏野菜の獅子唐辛子、パプリカ、茄子等の夏野菜を準備し、それを細かく刻んで、具の材料とした。卵を割って、そこに用意した夏の具材をいれて、用意する。

大盛りの夏野菜に対しては少々少ないくらいの卵を割って、夏野菜に絡めて、玉子焼きにした。途中で皿に取り出して反転させたのであり、その上下の焦げの様子は適度な仕様に仕上がっていた。

土用の丑の日の「うなぎ」は、立ち飲み屋にて食することとなった

本日は土用の丑の日なのであり、朝からつまりは起きて間もない時から、「うなぎ」を食べる算段を企んでいたのであった。

かつてこの日には、静岡県三島市内の専門店にて、鰻重のふくいくとして濃厚な味わいの鰻に食することができていた。過去の記憶でありそれ以上の意味合いは皆無なのではあるが、当日の鮮明な記憶に抗うことなど出来ずに記述しているのである。

されとて本日の鰻ではある。下町の鰻専門店やら、それ以外での鰻の常設、常提供的店舗を眺めてきつついたのではある。そして結局は、立ち飲み店のに辿り着いていたという訳なのである。

旬の時期の「枝豆」の恵みは甚大なり

某酒場にて「枝豆」を食した。何時でも食べられるメニューかと誤解されている向きもあるが、事実は旬のもの以外は冷凍保存されて出てきた代物であり、その豆のつややら張りやら、毛深さやら、更には栄養度やらにおいて、かなりの低下傾向を認めてしまう。つまりは旬の時期の「枝豆」以外は「枝豆」を名乗る資格は無いと云ってしまおう。

改めて「枝豆」の基本を述べると、世界の穀物市場にて超メジャー級の「大豆」の青春期の青刈りした青豆だということになる。成長して熟する大豆の前の云わば将来性を区切って、青刈りするのであるからして、カロリーやら栄養素やらとは別個の存在感が示されているのである。

この時期に青い豆をひたすら求める呑兵衛たちの行状には、暑い時期のホットな願望が憑依しているように見えてならない。つまりは、世の中の呑兵衛たちの願望を示すかのようにして、青々とした枝豆が呑兵衛たちの喉を潤している。目で見て青々とした枝豆の姿形は、夏の風物詩としての姿に相応しいのだと云えよう。