パクリと拡大のシンボル。上海万博をどう捉えるか

中国の上海万博が開幕して、マスコミはまたぞろ異様な騒ぎ様を呈している。番組総合司会者のみのもんたなどは司会稼業もそっちのけで出張レポート。ミス上海だかミス万博だとかにエスコートされてでれでれ。しまいには「上海万博の陰は見つからなかった」などとしゃあしゃあ喋って悦に入っているのだから呆れるのである。

そもそも国威発揚のお祭り騒ぎでしかない上海万博に関して、中国館、日本館の案内をしたところで何にもならない。それよりも、封印されたPRソングの行方はどうなっているのか? 岡本真夜の楽曲はオリジナリティーが保障されるのか? 盗作の当事者として名前のあがった繆森の正体は? 等々の追及すべきポイントは少なからず存在するのに、どことしてメスを入れる姿勢さえ示しては居ないようなのである。

1970年の大阪万博を翻ってみれば、そこには岡本太郎の「太陽の塔」なるシンボルが存在していた。良しきにつけ悪しきにつけ厳然として在ったし、今尚、千里万博公園の広場に立ちはだかっている。40年という歳月は「太陽の塔」を褒め称えてそこに住まわせているのではなく、異様な葛藤を生じさせても居る。美術評論家・倉林靖氏の言葉を借りるならば「圧倒的に浮きまくっているのだ」。「人類の進歩と調和」といった美名の下に開催された40年前の大阪万博は、岡本太郎をはじめとする当時のアーティストたちを巻き込み、長期間のイベントにドラマを添えていた。一面でそれは体制が「前衛」というムーブメントを取り込むための大規模なる仕掛けであったことは否定できない。だが大阪万博が終了してからの40年こそは、岡本太郎を含むアーティストたちの多くが新たな闘いを挑んだ時代だったと云えるのかもしれない。

上海万博を40年前の大阪万博の時代背景と比較して「中国は40年前の日本の姿だ」云々の議論ほど、実態に目を背けたものは無いのである。