自家製の鍋といえば、おいらのところでは例えば「湯豆腐」「キムチ鍋」「寄せ鍋」というものたちがポピュラーだったが、今宵は少々赴きを変えて、「きりたんぽ鍋」をつくって食したのだった。
近くのスーパーマーケット店にて、きりたんぽの具のもりあわせを買い込んで、おそらくは初めての自家製的「きりたんぽ鍋」にチャレンジということになったのである。
自家製の「きりたんぽ鍋」でほっかほかなのだった。
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川上弘美さんの長編小説「真鶴」を読んだ。
東海道線に乗って熱海の2つ手前の駅で降りると、真鶴港に向かう岬道が延びている。この小さな町が物語の舞台となっている。主人公の女性こと京は、夫に失踪されて12年が経つ。そしてあるとき元夫の書き残したメモに「真鶴」とあるのを発見し、真鶴への旅を繰り返すことになる。
「歩いていると、ついてくるものがあった。」「またついてくるものがある。」等々といった記述により、はじめはミステリー仕立ての物語かと思ったら、そのあと簡単に裏切られていた。夢かうつつの主人公に語りかける女の存在は、夫を奪った愛人なのか、或いは彼女自身の分身なのか…曖昧なままに、緩く進んでいくのだが、決してその流れは煩わしさもなく、かえって心地良さに満たされるかのようだ。
主人公の京には、現在進行形の愛人とも呼ぶべき編集者の青磁という男がいる。何回目かの真鶴訪問には、二人で訪れてもいる。過去と現在進行形との愛欲の交わりが、ストーリーに緊張感を生じさせるが、そんな設定も、物語を大部を占める緩やかさにとっての、脇役的な設定でしかない。
ぽつりぽつりと、言葉がこま切れに繋がっていくような、独特な言い回しもまた、物語をいっそう個性的な世界として浮かび上がらせるのだ。
文学評論家としての吉本隆明氏によれば、言語には「指示表出」的要素と「自己表出」的要素が存在しているとされる。当作品「真鶴」はまさに「自己表出」的要素の横溢した文体により創造でされた傑作である。他の作家の誰とも異なり、おそらく川上弘美さんの以前の作品にも無かったであろう、極めて純度の高い文体にまで昇華されている。その結果的に「指示表出」的な部分は影を薄くさせ、曖昧さが立ち上るのであるが、この香りこそが物語独特の風味となっていて、読者を魅了させていくことを感じ取らずにはいないのだ。
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昨日の、文庫版「共喰い」に関する記述の続きである。田中慎也氏による芥川賞受賞作の「共喰い」は、田中氏の日本語に対する稀有なる扱いの妙というものが見て取れるのであり、これは瀬戸内寂聴先生も認める才能である。然しながらに、小説家には扱うジャンルの向き不向きということが厳然として存在し横たわるのであり、田中慎也氏は、どうも恋愛ものを苦手としているようなのであり、寂聴先生もそんな田中氏に対して、愛情のこもったはっぱをかけているのだと、おいらは感じ取っていたのである。恋愛はもっとしなさいだとかいう寂聴先生が語った語感の端々にに、そのことが見て取れるのである。
芥川賞作家、田中慎也氏の受賞作こと「共喰い」の文庫版が、角川書店の集英社文庫より発行された。
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単行版の書籍で同作品を読んでいたおいらは、この文庫版を購入することはしなかった。けれども後書きにて記されていたところの、瀬戸内寂聴さんとの対談頁にはすこぶる興味をそそられており、立ち読みにて読了したのであった。
当対談の実現は、作家の田中慎也氏が瀬戸内さんとの対談を希望して実現したという流れである。
内容の大部分については、「源氏物語」に関するやり取りでしめられている。天皇になれなかった光源氏が色恋沙汰の恋愛に没頭することかできたという、田中氏による独自の分析が開陳され、それに対して瀬戸内さんが軽く受け流しつつ、芥川賞作家の恋愛観なり女性観なりについて、縦横無尽に突っ込んでいるという箇所がすこぶる面白い。
「爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011」を読んでいたのである。インパクト強く、編集スタッフの思いれぎっしりの一冊ではあった。
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表紙には若手有望株の浦島ひかり主演映画「愛のむきだし」のスチール写真で構成され、最初の扉ページには、「幻の湖」で疾走する南條玲子さんの写真がアップにて踊っているのだったのであり、このスチール写真にはいささかおいらも興奮の思いを禁じえなかった。これはまさに日本国のメジャー映画界のおきてやしきたりに反している。のみならずに、我が国の映画愛好家たちとは一線を画する評価基準が見えており、非常に面白いのである。
我が国の映画愛好家としてピックアップするならば、例えばネット掲示板界の第一人者として一世を風靡していた「赤煉瓦掲示板」主宰者の今井正幸氏は、たしかおいらとの掲示板上のやり取りの中で、「幻の湖」を観たことがないと語っていたのだった。こんな実験的意欲的作品を、こともあろうに映画マニアを任ずる今井氏が見ていたなかったということはすこぶる驚きではあった。しかも当時、何の興味も示さなかったことは、驚きを通り越して失望の思いを強くしていたものではあった。
南條玲子さんのデビュー作品である「幻の湖」は、それだけ意味のある日本映画界の鬼作的作品なのである。鬼作的逸品な「幻の湖」を再評価することにより、日本の映画界にも新たな光が垣間見えていくことになるだろう。「幻の湖」は日本映画界の名作にあたいする。
「巨人、大鵬、卵焼き」の何よりのヒーロー、元横綱大鵬が逝った。長嶋茂雄氏は元大鵬の逝去に対してコメントを発表している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000047-dal-spo
大鵬関と長嶋茂雄氏といえば、「巨人、大鵬、卵焼き」として名声を極めた我が国のヒーローの一角を成していた。王貞治氏を加えた3大ヒーローではあるが、紛れもなく強いヒーローがかつての我が国にはいて、国民が鼓舞されていた。戦後のある時代を生きてきたおいらにとっては、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉とともに、大鵬の偉業は記憶にやきついているのであり、それは昨今の五輪受賞者たちの比ではないのである。
先日は埼玉県寄居町「金太郎」にて美味い焼鳥にありついたのだった。
だが「焼鳥」とは名のみで実は、豚のモツが主材料の「焼きトン」というべき料理なのではある。豚の「カシラ」「タン」等々の部所に軽く塩をまぶして丹念に炭火で焼いていく。炭火で時間をかけて程よく焼いていくことで芳ばしい香りが立ち上っていき、注文を待つ客には否が応でも食欲を刺激されていくこと必至といった成り行きである。
カウンターに出された豚モツの「焼鳥」を眺めれば、もう口腔内はの涎たらたら寸前的状態。ぐっと喉を引き締めて、豚モツの焼鳥を食らったのであった。
焼鳥とともにカウンターに添えて出されていたのが、特性味噌だれである。赤唐辛子がたっぷりの辛味味噌であり、焼鳥に乗せればピリリとしてひき締まった味わいに変貌するのだ。
ところで豚モツを使った焼鳥と辛味味噌といった取り合わせはといえば、辛味味噌をなめたときにぴんときていたのだが、「東松山」で食する焼鳥と瓜二つではある。ぶりだったろうか、数年懐かしい味わいをほおばりつつ、店長に辛味噌だれのことをあれこれ尋ねていたら、やはり東松山焼鳥との接点が浮かび上がっていたのであった。
店長から聞いた話の要点は以下のとおりである。
そのむかし、寄居町には沢山の豚モツ的焼鳥店が存在していたという。当時はまだ水道のライフラインもままならなかったので、溜めた水で食器を洗ったりしていたのだったが、戦後のある時期に保険所のチェックが厳しくなり、寄居から東松山に移っていたのだという。東松山で「焼鳥店」を経営している多くは、もとは寄居の出身者によるものだというのだ。
鮮度の良くぷりぷりと噛みごたえも麗しいモツの串焼きと、ピリリと刺激度満点の個性的「焼鳥」のルーツは、寄居町にあるということのようである。
■金太郎 寄居駅前店
住所 埼玉県大里郡寄居町寄居1227
TEL 048-581-5005
営業時間 17:00~22:00
秋葉原のランチタイムに「AKIBA飯(アキバめし)」を食したのだった。
レタス、きゅうり等のたっぷりのサラダと特製そぼろ肉の上に、スープと魔法(?)のチリ風ソースをかけて味わう新感覚どんぶり、という説明が踊っている。まずは、そなえ付けで出された中華風スープを少々かけて混ぜ合わせる。すると下に居座っていたご飯が顔をのぞかせている。その上から、インドネシア産特製のチリソース(サンバルソース)をお好みの量をかけて、またまた混ぜ合わせて出来上がり。そしてスプーンで盛って口に入れてほおばる。
メニューの値は500円と手ごろ。コーヒーなどのセットドリンクが付いても600円なり。これにトッピングとして、スパム、やきとり、コンビーフ、さんまといった缶詰を乗せることもできる。缶詰専門店としてオープンした「缶’s Bar」ならではのメニューである。
味のほうは沖縄料理の「タコライス」に似ている。さしずめライトな味わいのタコライスといったメニューである。「缶’s Barオリジナルごはん」として売り出し中なのだった。
■缶’s Bar
東京都千代田区神田花岡町1-19
03-3251-8722
http://www.nre.co.jp/shop/db/detail_00599/
昨日はパソコンの調子がすこぶる悪かったのであり、書いている途中で何度もキーボードが引っ掛かっていたのみならずに、投稿のアップロードもままならなくなっていたので、いささかなからずの混乱を極めていたの是トンだった。本日はそんな事情もあり、昨日の大島渚監督についての半端に途切れて 書ききれなかったことなどを中心に記していきたい。
大島渚監督作品のなかでひとつを挙げよと云われたら、真っ先に「戦場のメリークリスマス」だと答えるだろう。それくらいにこの作品は、大島渚という稀有なる映像作家の深遠なる世界観が凝縮されている特別な作品なのだということである。
出演者には、ビートたけし、デビット・ボウイ、坂本龍一等々の個性派が顔をそろえている。そしてそれに負けないくらいに同作品のテーマの重さが、げんぜんと圧し掛かってくるのである。
反戦主義者として名高い坂本龍一氏をあえて軍国主義に染まった陸軍大尉ヨノイに起用し、現実的日本社会と映画的シチュエーションとの間に取り巻く緊張的関係性を深めていたのだ。こうした設定は、前衛的作品に挑戦し続けていた大島渚さんならではのものだ。彼の世界観、哲学というものを感じ取ると同時に、同映画には、映像的哲学とともにもっと広大なビジョンを観る思いで胸をときめかせていたことを、あらためて思い起こすのである。
大島渚監督が逝ったという。享年80歳。肺炎が死因だという報道である。以前から脳梗塞による体調不良がうわさされており、リハビリに励んでいる姿などがよくマスコミ映像でみかけていたものである。肺炎が原因で命を終えるということは以前は考えにくいことであったが、近頃はリハビリ中の高齢者の死因の上位に「肺炎」が並んでいる。十分注意するに越したことはないのであろう。
大島渚監督といえば、「日本の夜と霧」「青春残酷物語」「新宿泥棒日記」等々の作品で注目され、「日本ヌーベルバーグ」の第一人者として日本の映画界をリードしていた名匠である。おいらも高校を卒業後には各地の名画座等にて大島渚監督の映画にのむさぼり観ていたものである。
上州の実家に帰省していたのだが、本日は大雪のために3時間数十分遅れで都内に到着、そしてふ と上野の手前の赤羽駅にて降車したくなり、つまりは赤羽の名店「まるます家」にて一献や りたくなっていたのであり、途中下車していたのだ。赤羽の「まるます家」と云えば、知る人ぞ 知る大衆居酒屋の名店である。都内の多摩地区に住むおいらにとってはなかなか足を運ぶこ とも難しいのだが、本日はちょっとした思い付きで足を運ぶこととなっていた。
以前も何度か立ち寄っている名店である。恋、いな否、鯉と鰻がとくに名物なのである。おいらは先ずは「鯉のあらい」を注文。すると、淡白な鯉の身がピチピチとはじけるようにして鮮烈な食感を楽しませてくれた。さすがに大衆名店の逸品だけのことはあるなと感動のメニューなのだった。
信州蕎麦屋にて「けんちん蕎麦」を食した。そもそもけんちん蕎麦てはかけ蕎麦の熱い汁が「けんちん汁」風になっているというもので、あまり特別なメニューである訳ではなく、おいらも時々は作るし、外食メニューでもしばしば見かける。たまに見かければ食べたくなるといった程度のことから注文したのだが、これが意外にも深い感動と出会いだったという訳なのだった。
先ずもって意外だったのは、蕎麦汁がとても薄口だったこと。一般的なけんちん汁の醤油味に比べても極めて控えめなスープの味わいだ。牛蒡、人参、里芋、油揚げ等々の具材が、鶏肉ベースの上品な出汁で煮込まれている。そして蕎麦汁の表面には胡麻油が乗っており、風味と味わいに追い討ちをかけているといったかんじなのだ。胡麻油が温かく喉の奥を突き刺すようにして、たっぷりと温まっていた。東京の食文化とは異質な日本の蕎麦文化と云ったものを感じ取らざるにはいなかったのである。
かんじんの蕎麦がまた風味豊かだったのであり、信州蕎麦の面目躍如なのである。蕎麦を取り巻く食文化のバラエティは、想像以上に豊かで奥深いものがあるとの認識を新たにしていたのではあった。
新装版「孤独のグルメ」を読んだ。久住 昌之の原作、谷口ジローの作画というコンビによる作品で、じわじわとファンを増やしたといういわくつきの作品だ。
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漫画を読むという行為はあまりなく、ほとんどの漫画に対しては「見る」あるいは「斜め読みとばす」という程度のものなのだが、「孤独のグルメ」には読むに値するものを感じとっていた。
町のちょっとした食堂、レストランでの料理を食する主人公は、何やらいわくありげな個人の貿易商といった設定だ。仕事で訪れた町をさまよいながら、ぶつぶつと何かを呟きながら、一期一会のグルメとの出会いを目指す。ただ食いしん坊だはからという見方もできるくらいに、強靭な胃袋と食欲を有している。ハードボイルドな仕草や出で立ちはドラマに緊張感を与えるが、主人公の背景が掘り起こされるといった展開がなされる訳ではない。ひたすら町を彷徨い、食欲と胃袋が満たされることを志向する主人公がいるだけのような気もしてくる。けれども何か惹かれるものを、この奇妙な漫画さくひんは持ち合わせている。
食事をする姿は人間の本能にかかわるものであり、恥ずべき要素を含んである。ぶつぶつと独り言を云いながら料理を食する姿は、そんな恥ずべき行為でありつつ、あえてそれを漫画の主人公の姿としてさらすことにより、共感を生み出しているのかもしれない。
東京下町の某居酒屋に入って目に付いたメニューが「鯛のカブト焼き」であったのであり、おいらは思わず知らずに(すなわちオートマティック的に)注文していたのである。
注文して出てきたその期待のメニューは予想に反して小振りであった。20㎝未満、15cm程度であったと記憶している。
時間をかけてじっくりと焼き上げたそのカブト焼きは、鱗が光る鯛カブトの表面をまるで芸術作品のような手が加えられて出てきたもののようではあった。
先ずは鯛の身の表面に慎重に箸をつける。するとこんがりと塩焼きにされた鯛の皮の先には、生身感漂うジューシーな鯛の身が姿を見せて、おいらはそんな愛すべき鯛の身にむしゃぶりついていた。塩味がきいていて、いつもより塩辛い味の鯛かま焼きであったが、ほっとする味わいに満足至極なり候。
鯛カブトの目の裏の部分には、ご存知健康成分の筆頭とも云えるDHA(ドコサペンタエン酸)の宝庫である。頭がよくなり血液さらさらにさせるというのだから、有難くいただいていたのである。
八王子南口の焼き鳥、焼きトンの名店「小太郎」本店に足をんだ。綺麗な二号店ではなくて煤が覆い茂っている本店に足を運んでいた。
ここの「ホッピー」はといえば、大きなジョッキにて提供されるもので、馴染み親しんでいるタイプのものとはことなるので、おいらはそんなホッピー注文をためらうことしきりなりであり、代わりに注文するのはチュウハイ、瓶ビールだったりする。やはり今晩もそのとおりの注文なり。
最初に注文したのは同店自慢のヤキトンであり、生豚つくねの「生小太郎焼き」を含む数点を注文。豚のモツは折り紙つきである。おいらが注文した串焼きの皿には、カルビや軟骨など、此処でしか口にできない絶品メニューが並んでいる。「生小太郎焼き」は中でも異彩をはなっていたのであり、口腔の中でひろがっていた味わいは美味のひとことなのでありました。
http://www.yakitori-kotaro.com/
寒い冬のさむい夜には鍋を注文することしばしばなれども、湯豆腐を食するにはいささか特別なる拘りが存在する。つまり湯豆腐の大切な脇役であるタラが在ることである。タラは銀ダラだったり真ダラだったりするが、豆腐のみの湯豆腐は味気ないのであり、重要脇役的存在である「タラ」が居てこそ、美味しい「湯豆腐」が成り立つのだから、この拘りは決して引けないのである。
ところによってはタラの入った湯豆腐のことを「タラチリ鍋」などと呼んでいる。タラがどっさりと大量に用いられているのが「湯豆腐」との差異であるとも云えるが、それでも湯豆腐鍋にタラが必須であるというかっこたる基本は動じることがない。
関西に居住する友人がかつて主張していたのだが、「湯豆腐は豆腐が主役であり、豆腐だけの鍋で何が悪い…」と。だが然し、こうした理屈は、あえて書けばこうした屁理屈こそは、関西人の固陋な習慣を増長させるしろものである。関西人のみかくや関西的料理が日本料理の基本ではない。このことは関東人としてはっきりと主張しておきたいことなのである。
「あか海老」の刺身を食した。体長10センチ以上もある大降りの、名前のとおり赤い色をした海老であり、一見して甘海老を大きくしたようだが、その身のコクや頭部の味噌(海老味噌)のガツンと濃厚な味わいは、甘海老の比ではないのだ。ボイルすることなく生で味わえる海老の中では、味わいや食べ応えともに抜きん出ている逸品食材である。
ところで一口に「あか海老」と呼ばれる海老の種類にも多々あり、「 アルゼンチン赤海老」「北国赤海老」等々、国際色もゆたかてある。食したものは水上げの産地は判らなかったが国産ものであることが見て取れた。頭部は大きく殻が隆起している様が見た目の好奇心をいたく刺激する。指で頭部を持ち上げると殻は簡単に身からぶんりされていた。身のぷりぷりした甘さは先述したとおりに甘海老以上なのであり、味噌をふくんだ頭部に噛り付けば、鮮度抜群の海老味噌にありつくことができたのであった。