八王子市夢美術館の「夢美エンナーレ」鑑賞

八王子市の画廊散歩イベントでのスタンプラリーは、10軒の画廊を巡った後に、八王子市夢美術館でのゴールで締められる。同美術館でゴールのスタンプを押せば、通常300円かかる「夢美エンナーレ」への招待券が与えられるのだ。

この「夢美エンナーレ」という展示会は、今年で4回目となる恒例の公募展であり、八王子市に在住・在勤・在学していたり、あるいは過去に在学していた人を対象にした、市民参加の公募展という特徴がある。展示会開催中の会場入場者には投票用紙が配布され、来場者の投票によって、大賞他の13の受賞作品が決定される。「あなたの投票で大賞が決まる。」というのがキャッチフレーズとなっている。

「画廊散歩」のイベント参加者は、ベテラン、老練の作家が中心だが、この「夢美エンナーレ」のほうはと云えば、対照的に若手による作品が目に付いた。特に100号サイズ等の巨きなキャンバスに描かれた作品が中心であるため、何をおいても若いエネルギーに圧等されるのだ。

反面で、ちょいとした技法を加えることで完成度が高まったり、アピール度が上昇したりするはずの、云わば未熟な作品も多かった。おいらも会場にて配られた投票用紙に3点の作品の投票活動を行なったが、老練な作品よりも、未熟だが荒削りの作品を最後は選ぶこととした。受賞作品が決定したら、またそれらの作品とおいらの投票作品等についてもコメントしたいと考えている。

ともあれ、現在八王子市内では、アートのユニークなイベントが開催中である。「画廊散歩」とあわせてセットで鑑賞するのがお勧めである。

■八王子市夢美術館
東京都八王子市八日町8-1ビュータワー八王子2F
TEL 042-621-6777
http://www.yumebi.com/
夢美エンナーレ入選作品展
2/27~3/25

東北地方太平洋沖地震発生。これはまるで1000年に1度の地震・津波なのか?

本日の大地震には肝を潰された。はじめは地響きのような下からの振動に、何か後ろの人間が悪戯をしているのか、あるいは過度な貧乏ゆすりを始めたのかと、受け止めようとしていたが、次第に高まる揺れに対して、異様な怖れを強く感じ取っていた。そして揺れは左右に増幅を始めながら、止まる気配さえ無かった。おそらく2分程度は本揺れが続いていたのではないだろうか。

そのときは相当に大きな地震が、相当に遠い場所で発生したのだろうと考えていた。通常は人的被害を与える地震といえども1分以上続くことは無いとみられるからだ。これが直下型であったらとっくにビル、マンションは潰れており、潰れないで揺れを続けているという状況こそは、しかもこれだけ大揺れに揺れた地震というものこそは、そんな超大地震の想像を高めていたのである。

人間の力で地震を止めることは出来ない。なんとまあ非力なものかと感じ取らざるを得ないのだ。

群馬の実家に電話したところ、東京と同じような状況であったようである。おいらの出身県の群馬は活断層が存在しないとされており、これまでに身の危険を感じるような地震には遭遇することなく過ごしてきたのだ。だがしかし今回の地震に接して、本当の怖さを身に染みて感じさせられたという印象なのだ。

都内の電車は止まっていて、自宅に帰ることさえ出来ない人々が駅前にごった返していた。市役所が宿泊所を設定するというアナウンスもされていたようである。不安定な状況下での交通マヒは、多くの市民の不安を助長するのではないかと懸念する。JRや他の私鉄と市当局等のスムーズな連携を願う。

「第14回八王子画廊散歩」がスタート(初日篇)

昨日予告した「第14回八王子画廊散歩」がいよいよスタートしたのです。

午前10時を過ぎた頃に作品を搬入。初めて足を踏み入れたその画廊(昨日も書いたが「ギャラリー芙蓉」という八王子の老舗画廊だ)に入れば、外見からは想像以上に奥深い画廊の全貌を見て取ることが出来た。入口は小さいが中身は大きいという、云わば八王子の花街界隈に息づく間取りの妙が、此処にも活きているように感じられた。

元はと云えばこの場所は居酒屋であり、巨匠作家のアドバイスにより画廊が誕生したのだというエピソードを、なるほど現実的な事象として納得させたものである。

この1年間で参加する画廊が3つ増えたという。都下の中心都市とはいえ、10もの画廊が存在しているとは知らなかった。八王子という地場が、そのようなアートの発信地としての特別な場所を担っているのかもしれないが、定かではない。

本日初日の「第14回八王子画廊散歩」は、無事にスタートを切り、市内の10ヶ所の画廊を舞台にアート作品の展示を行なっている。昨日のコメントとダブルが、八王子方面に足を向けるようなことがありましたらば、ぜひどれかの画廊をのぞいてみてください。

「第14回八王子画廊散歩」が明日スタート、おいらも作品展示します

http://www.atorie248.com/garousanpo/

八王子市内には中小の画廊が散在しており、地元作家をはじめとして幅広いアーティストたちの作品発表の場所となっている。そんな市内の画廊関係者が中心となって「八王子画廊散歩」というイベントが催されている。

今年は明日(3月10日)から15日まで、10ヶ所のギャラリーを会場にて開催される。どの画廊も八王子駅から徒歩20分圏内にあり、散歩しながら美術作品に接するには丁度よい機会だ。

実はおいらもこのイベントに参加する。作品展示するのは「ギャラリー芙蓉」という、小さいが八王子市内では最も古参の画廊である。期間内に八王子近辺へと訪れる予定の人は、ぜひ足を運んでみてください。

■ギャラリー芙蓉
八王子市横山町18-19
Tel:042-623-9013

会期中にスタンプラリーが開催され、10ヶ所の画廊を回ってスタンプを押した人には、八王子市夢美術館にて開催中の「夢美エンナーレ入選作品展」招待券がプレゼントされるという。1日で全てを回るのはきついだろうが、近くにお住まいの人はチャレンジする価値もありそうだ。

http://www.yumebi.com/exb.html

青森の親善大使「いくべぇ」に遭遇

東北新幹線が新青森まで開通し、JR東日本は、TVや雑誌媒体を巻き込んでの青森キャンペーンに余念が無い。4月23日からはさらに「青森ディスティネーションキャンペーン」が大々的に行なわれるのだといい、その為に昨年の2月に誕生したのが「いくべぇ」である。全国を行脚しながら青森をアピールしているのだ。

青くてずんぐりと丸っこい身体は青い林檎のようだと思っていたら、やはりそうだったようで、頭の上には林檎の花を乗せている。最初のデザイン画では青森の「A」をあしらった三角形が強調されていたのだが、実際のぬいぐるみのキャラは、足もほとんど見えないくらいに短足でずんぐりしていて、より林檎のイメージが強調されている。

長かった冬がようやく終わりを告げた春にこそ、青森に来てくださいということのようだ。確かに冬の青森は、自然溢れる温泉地での雪見風呂などを体験できるが、行動範囲は限られてしまう。温かくなって行動範囲が広がる季節は、青森を体験するに相応しいといえるのかもしれない。

青森には何度も足を運んだことがあるが、まだ日本海側の土地を旅したことが無い。太宰治さんの「津軽」には、故郷「津軽」のみならず、深浦、鯵ヶ沢などを巡った彼自身の旅が生き生きと描かれていて興味をそそる。今年こそはそれらの地域を旅したいと考えているところなのだ。

こんなサムい雪の夜にはサムゲタン(参鶏湯)で決まりだな

本日は朝から雪が降っていたという仰天な気候に振り回された1日であった。ところでこんな日にこそ食べたくなるのがサムゲタン(参鶏湯)なのである。

本日はまたまた途中下車して高円寺の韓国料理の店へと向かっていた。サムゲタン(参鶏湯)は色々と食堂のメニューにも登場していてポピュラーなのだが、あまり満足したことが無いのもまた現実だ。例えば大手ファミリーレストランの「ガスト」でありついたサムゲタンは、何だかピントの外れたサムゲタンもどきだった様な記憶がある。本物のサムゲタンを食べたいと向かっていたのは、高円寺のガード下にある店舗であった。

韓国料理は辛いものだと決め込んでいるのはちょいと非常識のそしりを免れないことになるのだろう。サムゲタン(参鶏湯)という料理は、韓国では一般的な健康料理であり、数多の家庭で食されているものだが、こと「辛さ」という味付けは一切無いのである。

本日ありつけたサムゲタン(参鶏湯)は、鉄板の容器の中でグツグツと沸騰した鍋のようにしてテーブルに差し出された。沸騰した鍋にしばらく気を取られている間に、最後の調理がなされていたのであろう。こんなパフォーマンスも見事である。
そして沸騰した鍋が落ち着いてきたころ、鼻先には馴染みの鶏ガラスープの香りが漂っていた。とてもシンプルでかつ控えめなものであった。

そもそもサムゲタン(参鶏湯)という料理は、若い鶏を丸ごと使い、お腹を裂いて内臓部分に高麗人参、ナツメ、各種の雑穀を詰め込んで、じっくりと煮込むという料理である。とてもシンプルでありながら、中華料理の薬膳の思想にも繋がっているものがあり、それが故に極めて国際的なメニューなのだ。

若鶏のお腹を開いてみると、シンプルであった鶏の香りがとても重厚になるような体験に襲われた。鶏とプラスαの食材が、これほどまでにドラマティックな成り行きを示すとは想像の埒外であったのではあり、正しいサムゲタン(参鶏湯)の理解には、今回漸く辿り着いたと云うべきなのかもしれない。

特に雑穀と呼ばれている穀物の味わいは秀逸であった。鶏のお腹の中から取り出した雑穀たちが、こんなに風味強く味わい深く食することが出来たということが、とても感動的だったということを記しておきたい。

■オムニマッ(母の味)
東京都杉並区高円寺南3-68-1

和風カレーの一つの方向性を示すのが「スープカレー」なのだ

北海道の札幌で誕生したという「スープカレー」。口コミなどからブームを発生したとみえ、近頃では東京でも頻繁にお目見えすることになった。さらっとした(つまりドロドロとしていない)カレースープが特徴なのだが、何度か口にするたびに思うことがある。このスープカレーこそは和風カレーの一つの方向性を示す料理ではないかということだ。

先ずはこのスープの和風な風味。このスープの出汁はといえば、鶏ガラ、豚骨、そして鰹節等がミックスされて大切に仕込まれている。店によっての違いはあるが、まるでラーメン店のスープのように、時間をかけてじっくりと仕込まれている。

そもそも印度や英吉利におけるカレー料理というのは、スパイスが効き過ぎているほどにきつく喉を突く。辛味だけではなく、各種のスパイスが主役となっているような料理である。それに比べて和風カレーというものは、何とマイルドなことであろう。小・中学校の給食で出されたカレーこそは、和風カレーのある種の典型を示している。だがそれ以上に日本人の味覚に合わせるようにして、スープカレーは誕生したのではないのかと、密かに感じ入っていたところなのである。

和食の良さの一つとして強調したいのは、そのスローフーズ的な調理法によるまろやかさである。和食とは一面で「刺身」に象徴されるような、素材の生の味を活かした調理法によるのではあるが、それだけではなく、じっくりと仕込まれたスープの出汁を活かした調理法が定着している。これはもう、印度や英吉利の料理には存在し得ない、日本独特の食文化であると云えるだろう。

おいらの好みは野菜をトッピングしたスープカレーである。地元のスープカレー店にて味わったそのメニューには、素揚げした人参、南瓜、じゃが芋、ピーマン、ナス、舞茸、蓮根、小玉蜀黍、ブロッコリー、等々の豊富な野菜が踊っていて、和風のカレースープの香りに包まれていた。カレースープの味も確かな出汁に包まれていて、至極満足したのでありました。

時空の交錯するワンダーランド、吉祥寺の「ハーモニカ横丁」を探訪

吉祥寺駅から北口に降りてすぐのところに「ハーモニカ横丁」という狭い横丁の路地裏街が存在している。人が行き交えば肩が触れそうなくらいに狭い路地に足を踏み入れれば、其処はまるで、時がさかのぼってしまった過去の商業空間か、或いは過去と現在とが交錯したワンダーランドのような光景に遭遇する。古き時代の商店街の面影が漂っているとともに、まったく現代的な光景がその中で息づいているのだから不思議だ。

入口近くの魚屋には、活きの良い鮮魚が薄暗い路地裏の光の中で飛び跳ねていた。鮟鱇の内臓の切り身があったり、刺身用の深海魚が並んでいたりと、普段の商店街の魚屋とは異質であり、魚の顔を眺めているだけでも興味は尽きないのだ。

路地をもう少し行くと、小さなギャラリーの入口が目に入る。手作り小物の販売を兼ねたミニギャラリーであり、狭い階段を登るたびに新たな出逢いに時めいてしまいそうだ。入口のアピールの仕方もなかなかキュートな趣を感じさせる。

そして一巡して立ち寄ったところが、「のれん小路」の中の小さな小さな居酒屋であった。その昔、おいらが高田渡さんと吉祥寺で出逢ったその日に、この小路の居酒屋にて一献交わした想い出の場所である。

今回改めて暖簾をくぐった店内は、結構今風な装いに彩られていたのであり、新しい吉祥寺の顔と云ってもよいくらいなものだった。そこで食した幾つかのつまみの中で、「紅芯大根の浅漬け」には驚かされた。紅芯大根という種類の大根があることさえその時知ったことや、独特のえぐみが強かったことやら、居酒屋メニューの常識を覆すくらいのインパクトだったのである。けっして美味しい食べ物ではなくてしかも心を動かすというのだから、相当な曲者だと思われる。

こんなメニューをさらりと提供して呑兵衛の気を引く。さすがに高田渡さんが愛した横丁だけのことはあったのである。

味が良い「鯵」の骨せんべいを味わったのです

日本で食される青魚の代表でもあるのが鯵である。「あじ」という名の由来は一説によれば「味が良い」からだとされている。たしかに魚の特有なこくが程よくのっている、美味な魚の典型ではある。

余談であるが最近のグルメ系タレントのコメントの中で、

「魚の生臭さがまったくないです…」
「魚ではなくまるで肉のようです…」

等々のコメントが、まるで正当なるグルメ派のものであるような扱い方がされていて、至極憤慨の念を強くしたものであった。魚を食するときに「魚が生臭い」だとか「魚が肉のようだ」とかのコメントはまさに、魚類のアイデンティティーを否定するものでしかないと受け取ってしまったのである。魚の本来持っている良さを何も理解していないものの、邪道なるコメントとしてうっちゃってしまいたいのだ。

鯵の干物にしても、また鯵の丸干しにしても、魚の脂が程よく染みていて、美味しさが一段と増すのだ。身近すぎることからあまり気付かなかったが、この鯵の恵みをこれまでどれだけ享受してきたことだろうか。

今宵はそんな美味なる鯵の刺身に加えて、残りの鯵の骨を脂で揚げて、鯵せんべいにしたものを味わうことが出来たのでした。

まず頭の部分を味わえば、からりと揚げられた骨感とともに、魚介類の青臭さが鼻を突いたのでした。これぞ鯵せんべい! おいらはこの鯵に、おっとまちがいた、この味に魅せられたのでした。

この青臭い風味というのか、あるいは骨臭い食感というのか…、このような魚の個性を認めずに、肉類と比較してコメントするなどとはもってのほかではある。グルメマスコミのワンパターンな放送は、害毒というものをしか発信できないものだと感じた今宵のおいらのコメントなのでした。

NHK契約カメラマンによる、平成「内灘夫人」殺害の哀れな事件簿

NHKの契約カメラマンによる殺害で、金沢市内灘地区の婦人が哀れな死を遂げてしまったという。内灘河岸に婦人の死体が埋まれていたという、まことにむごい事件である。

そしておいらは、この地区、すなわち内灘地区を舞台とした小説「内灘婦人」のことを思い起こさずにはいなかった。
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「内灘婦人」とは、直木賞受賞者の巨匠五木寛之さんによる小説である。「青春の門」という一般大衆小説以上においらたちの魂を揺さぶった名作なのであった。

五木寛之さんによる名作「内灘婦人」の中で、苦悩する婦人の姿は極めて切実な問題であったと記憶している。かつて理想に燃えて内灘の基地反対運動に挺身していった婦人と、現実社会の中で妥協して生きる夫との葛藤が一つの軸となっていたと記憶している。現実と理想という当時の巨大なテーマが小説の中で蠢いていたことが歴史的な記憶として戦列に浮かび上がってくる。

こと実際に内灘婦人を襲った平成の男と云えば、NHKの契約カメラマンであり、市民の皮を被ったまさに鬼畜であった。狡猾、強欲、等々が悪辣な事件を惹起させたという、極めて重大な問題を孕んでいる。こんなことが蔓延する土壌を早く清浄化していくべきだ。

逮捕された元NHK契約カメラマンの容疑者は、あれこれと周囲に投資話などを振り撒きながら、自分のことは「国営の企業の人間だから安心だ」というような言葉で、投資を募っていたという。

全くもって外道の所業と云うしかない。こんな羊の市民の顔をした鬼畜人種の日本人が増えていることには失望の念を強くする。

この国はアメリカではなく日本だのに、アメリカの悪しき潮流は確実に我が国に流れ込んできている。極めて由々しき事態なり。

今季最後となろう「モツ鍋」を食しつつ考えた、ダイエット鍋の条件

寒さの消えない冬の夜の食事は鍋に手が伸びる。手軽に温まるのが「モツ鍋」だ。たぶん今季最後のモツ鍋になろうかという食事を摂りながら、このメニューの特徴について考えたのです。

具となるのは白モツと呼ばれる牛の小腸、或いはその他の内臓モツ類に、キャベツ、ニラ、玉ネギ、ニンニク、唐辛子が基本となる。スープの味付けは、味噌か醤油の濃い口のもの。キャベツとニラから滲み出る甘味と水分とが、具材に奥行きを加えてゆくのだ。

モツの量はそう大量に入れる必要も無く、そもそもカロリーは低くて、しかも野菜の比重が高いことから一時は「ヘルシー鍋」とも称されていたことがあった。

煮込んだモツは柔らかくなるが、シコシコしたその食感を噛んで味わうのが楽しみの一つだ。牛の霜降り肉などのようにすっと胃袋に下ってしまうものではないが故に、シコシコしたその食感を噛んで味わうのが楽しみの一つだ。顎の運動にもなるからダイエットに適したメニューとして注目に値するのだ。

もう一つの主役が「キャベツ」なのだが、キャベツを使った鍋は多くはなく、大体の鍋には「白菜」が用いられている。カロリーは白菜に比べて若干高いが、やはりこれも顎を使って噛み切る運動にもなり、食べ心地も満足度も高いものがある。

このようにモツ鍋とは、ほかほか温まるのみならず、じっくりと食したときの満足感も高く、ダイエット食メニューとしての条件をクリアーしている。冬の季節だけのメニューとするにはもったいないものがあると思うのである。

「離婚は卒業」と強弁する悪女、沢尻エリカの新たな芸能戦略

 

スポーツ紙上ではまたぞろ、沢尻エリカの離婚騒動の記事が踊っている。先日の「たかの由梨」が設定したマスコミ会見場にて沢尻エリカは記者団の質問に答えるかたちの受け答えの中で、高城剛氏との離婚を「離婚は卒業」だと語っていた。夫の側としてはかなりの屈辱的なコメントなのだが、エリカにとってはこんな男の扱いは極めて日常的な行為でしかないようなのである。

スポーツ紙、芸能マスコミの報道内容をざっくり眺めてみるならば、「聖女と悪女」というのが今回の、たかの由梨CMのテーマだそうである。そして、聖女よりも悪女というのが、沢尻エリカに対する多数派の評価なのだというのである。

「悪女」論については当ブログでも過去に述べたことがあるが、今回はそれについては控えよう。

芸能マスコミ界では一段とスター扱いのエリカではあるが、過去のスターとの違いは歴然としている。例えば、松田聖子、中森明菜、ピンクレディー達のようなビッグヒット曲を持つわけでもないし、山口百恵のように、カリスマ的な存在感を示している訳でも残念ながらないのである。

彼女のプロフィールの中で唯一強調されるべきものは、井筒和幸監督による映画「パッチギ」に主演したときの演技力が秀逸であったということである。否、そのことでしかないと云ってよい。確たる実力が無いアイドル・タレントの末路は悲惨であることを、はてな沢尻エリカは自覚しているのであろうか?

時は折りしもSoftbankのCMでは、加藤清史郎君が「ちやほやの法則」についての講義を行なっている。初めはだれもがちやほやする。ちやほやされる度合いが強ければ強いほど、それだけ高く高くと持ち上げられて、ついには落とされるのである。芸能マスコミが一旦持ち上げた対象を落とすことは初めからの約束であり、約束に従ってジャリタレは落とされては泣きを見る。これこそ芸能マスコミ鉄板の法則の一つである。

彼女はたぶん、高をくくっているのだろうか? いつか落とされることは自明であり、それから井筒監督に救いを求めても遅いのである。早く井筒監督の下でもう一度、しっかりとした女優の修行に励むしかないのである。